フジクラの歴史始まる

創業者 藤倉善八
當社の歴史は、わが國電線事業が夜明けを迎えつつあった1885年(明治18)2月、創業者である藤倉善八が絹?綿巻線の製造に乗り出した時に始まる。故郷栃木県植野村(現 佐野市)船津川で農業の傍ら水車を使った精米業をやっていたが、1875年(明治8)東京へ進出し神田明神下に居を定める。善八33歳である。神田淡路町1丁目1番地へ転居を機として、妻いねが始めた內職から、1881年(明治14)「根掛け」の製造を始めた。善八は元來企業心に富み、進歩進取の人であったので、創意工夫で「根掛け」は全國から注文が殺到、その後10年間盛況が続いた。
東京の庶民が電燈を見たのは、1882年(明治15)に銀座で第1回デモンストレーションが行われた時である。翌1883年(明治16)11月に2回目が日本橋通りで行われ、記録的な見物人を集めた。その大群衆の中に藤倉善八と上京したばかりの16歳の弟留吉がいた。善八はこの夜の體験をきっかけに電気に興味を抱き、その後根掛けと電線被覆の編組技術が似ていることから電線事業に乗り出すのである。
藤倉留吉(後の初代社長)渡米
1883年(明治16)に上京。兄善八の家に落ち著き、漢學、英語の學校に通う傍ら、繁忙な工場を手伝う。1886年(明治19)7月、海外の新文化を學びたいとの堅い決意で米國に出発、留吉19歳である。米國では晝は働き、夜は英語を學んだ。1890年(明治23)7月に帰國した。1890年(明治23)松本家の養子となる。

若き日の藤倉留吉
(サンフランシスコ 1888)

米國在留時代
(円內が留吉)

サンフランシスコの寄宿舎
(円內は恩師ハリス博士)
神田淡路町工場
1885年(明治18)2月、神田淡路町1丁目1番地で絹?綿巻線の製造を開始した。藤倉善八、妻いね、藤倉(後に中內)春吉など、従業員は12名。自宅兼工場は3部屋(10,8,6畳)あり、そのうち工場部分は板敷10畳間で、その後3部屋に拡大。2丁目にも家を借りて「二丁目工場」としていた。組紐機械は手で回すため1臺に1人がついた。
やがてすぐに工場は繁忙となり、晝夜の別なく動かした。設備は、60cm四方の大型木製組紐機械1臺、鉄製小型編組機5臺である。絹?綿巻線、根掛け、羽織の紐などを製造した。
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二丁目工場(矢?。?/td>
| 神田淡路町工場の地図 |
創業地 神田淡路町工場(矢?。?/td>
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新宿工場
1888年(明治21)4月、宮內省御料地內(新宿御苑)の製糸場を借り受け新宿工場を開設。玉川上水から引く小川に水車があり、その動力を使う。工場は水車の両側に2棟の木造、瓦葺き、レンガ敷きの建物(15m×32m)であった。設備は組紐機械8臺、電線編組機20臺、従業員は5~6名。東京線、パラフィン線ランプコードの製造を始める。ゴム線の研究を開始する。
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