
東京大空襲(1945.3)により
深川工場全壊

復興途上の深川工場
1945.9に再建、生産を開始

復興した深川工場
(1968 當時)
沼津工場(靜岡県沼津市)

沼津工場(1954)
1944年(昭和19)に戦爭疎開工場として創設した富士工場は東京大空襲で焼失した深川工場から、焼け殘りの機械を移設し、ゴム線工場として稼動していた。しかし、もともとは製紙工場を借用していたので、電線工場としてはレイアウト?効率の両面で問題が少なくなかった。そこで富士工場を沼津に移転させ1953年(昭和28)7月より沼津工場として操業を開始した。當初の製品は裸銅線?アルミ線?ゴム絶縁線?プラスチック線等であった。沼津工場から、事業基盤を支え続ける數々の技術や製品が生まれていくのである。
佐倉工場(千葉県佐倉市)

佐倉工場(1965)
深川?沼津工場に次ぐ第3の工場を思い立ったのは巖戸景気さなかの1960年(昭和35)である。品種の広がりや受注増加に勢いがあり、これに対応するための近代的な工場の建設が急務となった。1964年(昭和39)に試運転が始まり、翌1965年(昭和40)から本格稼動した佐倉工場は高度経済成長の中、通信ケーブルを主體とした近代的な工場として急成長を遂げる。その後も勢いを増した佐倉工場は、光ファイバの量産、FPC(フレキシブルプリント基板)や電子ワイヤの量産、光ファイバ融著接続機の開発製造も加わり、當社の屋臺骨を支える存在になるのである。
鈴鹿工場(三重県鈴鹿市)

鈴鹿工場(1970)
1965年(昭和40)からのイザナギ景気を背景とする電力需要の急増に対応するため、電力CVケーブル生産専用の工場建設を計畫していた。ちょうどその時期、工場誘致に熱心であった三重県鈴鹿市からの交渉を受け、1970年(昭和45)に第4の工場となる鈴鹿工場を建設した。製造設備は當時最高レベルのものを導入し、先進のCVケーブル工場であった。鈴鹿工場は創業早々から大型受注が相次ぎ、フル回転創業が続いた。當社の電力事業を支える一大拠點として急成長を遂げたのである。
本社事務所霞が関ビルへ

霞が関ビル
1968年(昭和43)4月に日本最初の超高層ビルである霞が関ビル(地上36階、地下3階)が完成した。當社も霞が関ビルへの本社事務所移転を決定し、同ビル11階で業務を開始した。
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